日本から見たグローバリゼーション

セバスチャン・ルシュヴァリエ
大中一彌


 本報告では、グローバリゼーションをアメリカ化として捉える一極主義的な見方をのりこえるべく、グローバリゼーションの主要アクターとして日本を正しく把握することを目指す。
 そもそも、世界レベルで生起しつつあるグローバリゼーションの把握において、日本はいわゆる日本学の専門家にとどまらぬ広範な関心を惹起しうる。歴史的にふりかえるなら、まず一九八〇年代において、日本はグローバリゼーションの過程の「勝ち組」のうちに数えられていた、ということがあげられる。当時グローバリゼーションの趨勢は(日本製品及び生産モデルの海外への普及を中心とする)世界の「日本化」にあるとすら考えられていた。この段階において、アメリカでは、いわゆるキャッチ・アップ過程を終えた日本がいまやアメリカの覇権に対する直接の競争者となったとすら認識されていた。ところが今日では、危機の明確な原因がはっきり理解されているとはいいがたいにもかかわらず、危機という事実そのものが、当時の認識の誤りを示すものと考えられる。この文脈においては、日本はむしろグローバリゼーションの犠牲者ないし「負け組」ではないか、という問いが正当性をもつ。
 本報告では純粋に経済的な過程としてのみグローバリゼーションを把握することは、経済的にみても不可能であり、政治的、文化的要因をも考慮にいれることの必要であることが主張される。そして一九九〇年代の経済不振が、日本の将来という観点からみるとき、単なる成長の鈍化といった事態よりも広範な問題を孕むものであることを検討する。従って本報告のアプローチは学際的なものとなる。
 本報告は特に、グローバリゼーションの「勝ち組」として日本が表象されている一九八〇年代の「国際化」と、一九九〇年代以降不況色が濃くなるなかでネガティブなイメージをもってとらえられていくようになる「グローバリゼーション」という二つの用語がはらむ表象の分析をひとつの特色とする。
 本報告が最終的にめざすところは、アメリカ合衆国による(多少なりとも幻想的な)一極支配としてのグローバリゼーション概念から、欧州、日本をも考慮にいれたより多極的なグローバリゼーションを提案することにある。